イエスに関しての証拠‐考古学から何が明らかにされたのでしょうか?
考古学からイエスに関しての証拠はあるのでしょうか?イエス・キリストについての歴史的事実と証明される遺物、または実際の遺跡はあるのでしょうか?驚くことに、最近数諸N間にイエスの生涯と、教えと、死と、復活に関する証拠が発掘されているのです。
イエスに関しての証拠‐初期の人生とミニストリー
イエスに関しての証拠は誕生地ベツレヘムから始まります。キリストの降誕地として一般的に認められている歴史的遺跡は、聖誕教会にある装飾的ベツレヘムの星のマークとその洞穴です。小都市と段々になった丘の斜面には今でも羊飼いと羊の群れを見る事ができます。
キリストが幼年期を過ごしたガリラヤ湖沿いにあるナザレの街は現在もそこに存在し、さらに最近の干ばつサイクルによって聖書に記されている古代の港の位置が明らかになりました。事実、一世紀のガリラヤ人漁船が最近泥に埋もれたまま発見されました。だれの持ち舟であるかは不明ですが、発見された船はイエスと彼の弟子たちが用いた聖書に記されている船とマッチしています。
たびたびイエスが訪れたカペナウムの町は広範囲にわたり発掘され、現在保護されています。その中で特に興味のある場所は、イエスが汚れた霊に取り付かれた人を解放し癒した後、命のバンについて話されたカペナウムの会堂とペテロの義母と他の人々を癒されたペテロの家です。
考古学の遺跡は、イエスに追い出された悪霊が豚の中に入る奇跡のミニストリーが行なわれたガダラ人の町KursiとTabgha、また(パンと魚の奇跡)山上の教えで良く知られたBeatitudes、Caesarea Philippi(ペテロの告白)そしてイエスがサマリヤの女に話されたヤコブの井戸です。
ヘロデ大王が築いたユダヤ人の基盤、神殿の山は今でもエルサレムで見ることが出来ます。またエルサレムで注目する別の遺跡は、イエスと彼の弟子たちが神殿に入った“南部の階段”と、体の不自由な男を癒されたベッサイダの池と、最近になって発見された目の見えない男を癒されたシロアムの池です。
イエスについての証拠ー庶嚔ヒ刑と最後の日
イエスの一連の出来事と十字架刑に関しての証拠はエルサレムに位置するオリーブ山の向こう側、キドロン・バリーから始まります。捕らえられる前、イエスが祈りをささげたゲッセマネの園まで、古代オリーブの並木道を散策する事ができます。そこから振り返ると、苦しんで死に至る裁判に連れて行かれるイエスがエルサレムに入ったキドロンバリーから黄金の門を仰ぐ事もできます。
イエスの裁判と庶嚔ヒ刑に関わったリーダー達の証拠と、その当時のローマ総督、ポンテオ・ピラトについて言及している資料と、ユダヤ人の大祭司カヤパの骨壷が発見されています。ポンテオ・ピラトが判決を下した実際の場所gabbatha(アラム語)と、カルバリの丘(イエスが自分の十字架を担いで歩いた道)まで続くVia Dolorosa(ビア・ドロロサ)や、その他数多くの証拠がエルサレム全土から発見されています。大規模な聖セバルカ教会はキリストが処刑され葬られた場所であると多くの神学者が認めています。紀元一世紀頃、ローマ帝国で十字架刑を実践していた証拠となる鉄のくいが突き刺さった二千年前の踵の骨が、エルサレムの墓地で発見された事実は驚異的です。
イエスに関しての証拠‐復活については?
次に、古代遺跡のクライマックス、イエスに関しての証拠である空になった墓はエルサレムの塀の外に位置しています。しかしアリマタヤのヨセフの墓は明確でなくとも古代の園の墓にその当時の様子と指導者をなくして意気消沈し(その後救い主イエスと分かる)エマオ村に向う二人と一緒に歩くイエスが目に見えるようです。恐ろしさに怯えながら隠れていた一握りの弟子たちが、その後大胆にイエス・キリストを主張するようになったのは何が原因だったのでしょうか? 答えは:死からよみがえったイエスの驚異的証拠がこれらの人々を一変させた原因なのです。
もっと先を読みましょう!